Archives: Article

天国の愛の歌

聖書のみことば:黙示録5:1-13
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。 Ⅰヨハネ4:19

ソングライターのビリー・ヒルは、1936年に「グローリー・オブ・ラブ」、日本語に訳すと「愛の栄光」という曲を発表し、それは大ヒットしました。人々は、たとえ些細なことでも、互いを愛し、親切な行いをする喜びをたたえる、この歌を口ずさみました。50年後、作詞家のピーター・セテラが同じ題名の歌を作りましたが、それは恋の歌です。永遠にともに暮らし、互いを知り、どんなことも愛の栄光のために行うという恋人たちをイメージしています。

聖書の最後の書「ヨハネの黙示録」には、いつの日か、天と地のすべてのものが新しい歌を歌うと書かれています(黙5:9、13)。しかし、その始まりは嘆きです。ナレーターのヨハネは、世の何もかもがうまくいかない様子を見て激しく泣きますが(3、4節)、やがて栄光と愛の物語を聞かされます(12、13節)。そしてついに、ユダ族から出た強い獅子を、すべての被造物がたたえる賛美の歌を聞くのです(5節)。そのお方は、私たちを救うために、贖いの小羊のようにご自身をささげ、民の心を勝ち取った愛のお方です(13節)。

小さな愛の歌がヒットするのは、このような前代未聞の愛があるからでしょう。栄光の歌は神の心を反映します。神が賛美をくださるので、私たちは主に向かって歌います。

 

父なる神よ、小さな親切や愛ある行動を目にしたときに、どうか、あなたの愛を思い出すことができますように。
今日、どんな小さな親切で神への感謝を表せるだろう。

投稿者Mart DeHaan | 他の著者を見る

聖書 新改訳 ©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 

<<前の記事

 

 

戻る

 

名前を呼ばれる

聖書のみことば:ヨハネ20:11-18
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、へブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。 ヨハネ20:16

広告業界の人は、人の注意を最も引く言葉は自分の名前だと言います。そこで英国の某テレビ局は自社のネット放送に、視聴者をそれぞれの名前で呼ぶ広告を導入しました。テレビで自分の名前を呼ばれるのは面白いかもしれませんが、親しい人に名前を呼ばれたときの気持ちと同じではありません。

イエスは十字架につけられ葬られました。その墓地で、自分の名前を呼ぶ声に、マグダラのマリヤは釘付けになりました(ヨハ20:16)。それが敬愛する先生であることはすぐに分かりました。信じられない気持ちと同時に、歓喜の波が押し寄せてきたことでしょう。自分の名を呼ばれる様子からイエスが生きておられることは疑う余地が無いと確信しました。

マグダラのマリヤは、イエスから比類ない祝福を受けましたが、私たちも一人ひとりが個人的に神に愛されています。イエスは御父のもとに上るとマリヤに告げられましたが(ヨハ20:17)、信じる者たちに助け主を送ると弟子たちに言われました(14:15-18)。そして内住の聖霊を送られました(使徒2:1-13参照)。

神の物語は時代を超えて不変です。神は愛する人々をご存じで(ヨハ10:14-15参照)、各々を名前で呼んでくださいます。

 

敬愛する天の父、生きておられる主イエス、慰め主なる聖霊さま、私を知り尽くし、いつも、いつまでも、私を愛してくださり感謝します。
宇宙を造られた神があなたを作り、あなたを名前で呼んでおられる。

投稿者Amy Boucher Pye | 他の著者を見る

聖書 新改訳 ©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 

<<前の記事

 

 

戻る

 

 

次の記事>>

 

勇敢な行動

聖書のみことば:ヨハネ10:7-18
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。…また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。ヨハネ10:14-15

ジョン・ハーパーは、事故を予想だにせず、6歳の娘とタイタニック号に乗船しました。妻を亡くしていましたが、イエスを愛し、皆にもイエスを知って欲しいと願う人でした。船内が浸水すると、彼は幼い娘を救命ボートに乗せ、自らは人命救助のため、混乱する船内に戻りました。「女、子供、イエスを知らない人を救命船に」と叫びながら、ライフジャケットを配っていたといいます。最後の瞬間まで、イエスを伝え続けました。ハーパーは、他の人が助かるために己のいのちを捨てたのです。

イエスも2千年前、私たちのためにいのちを捨てられました。おかげで、私たちは、この世だけでなく、永遠を生きることができます。

イエスは突然、人類の罪を贖うと決意されたわけではありません。それが主の生まれた目的でした。ユダヤの宗教指導者たちに語る中で繰り返し「わたしは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハ10:11,15,17,18)と言われたとおりです。そして、お言葉どおり、十字架で残忍な死を遂げられました。イエスが来られたのは、パリサイ人もジョン・ハーパーも、また、私たちも「いのちを得、またそれを豊かに持つため」だったのです(10節)。

 

あなたは、周りの人に対する愛をどうやって示しますか。
今日、何をして、イエスの愛を表しますか。
イエスよ、あなたの大きな愛に感謝の言葉もありません。犠牲を払っても、あなたの愛を伝えられるように助けてください。

投稿者Estera Pirosca Escobar | 他の著者を見る

聖書 新改訳 ©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 

<<前の記事

 

 

戻る

 

 

次の記事>>

 

見て静まれ

聖書のみことば:ルカ23:44-49
よく見よ。…このような痛みがほかにあるかどうかを。 哀歌1:12

メキシコの作曲家ルベン・ソテロは「その人を見よ」という曲を作りました。その曲はイエスを見て静まれと促します。なぜならイエスが十字架にかかるという行動で示した愛を前に、人は返す言葉を失うからです。私たちは信仰によって福音書に描かれた場面を想像し、十字架、血潮、釘、その痛みや苦しみを心に思い描くことができます。

聖書は、イエスが息を引き取られたとき「この光景を見に集まっていた群衆もみな…胸をたたいて悲しみながら帰った」(ルカ23:48)と語ります。遠くから事の次第を見ていた人たちもいました(49節)。皆、口を開かなかった中で、唯一言葉を発したのは「ほんとうに、この人は正しい方であった」と語った百人隊長でした(47節)。

イエスの時代よりずっと昔、預言者エレミヤは「道行くみなの人よ。よく見よ」と書きました(哀1:12)。エレミヤは、エルサレムの荒廃以上の苦しみは無いと思って、人々によく見なさいと促しました。しかし、イエスの苦しみはどうでしょう。これ以上の苦しみが他にあるでしょうか。

私たちは皆、十字架の道を通りますが、そこでイエスの愛を見つめていますか。今年のイースター、賛美の歌だけでは感謝を十分に表せないと思うなら、静かにイエスの死を思い巡らしましょう。そして「私をささげます」と心から告白しましょう。

 

愛するイエスよ、あなたの十字架の犠牲を思うとき、あまりの感謝に言葉を失います。
主よ、あなたの愛にただただ感謝します。
十字架を見て礼拝せよ。

投稿者Keila Ochoa | 他の著者を見る

聖書 新改訳 ©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 

戻る

 

 

次の記事>>

 

パクス・ロマーナ

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。—イザヤ書9:6

戦争の痛みを償える人はいません。それなのに、あるウェブサイトによると、現在、64カ国で何らかの武力衝突が起こっているといいます。それは、いつ、どのように終わるのでしょう。私たちは平和を望みます。しかし、正義を犠牲にした平和では困ります。

主イエスは「平和な時代」に生まれましたが、その平和は厳しい圧政によるものでした。パクス・ロマーナ、すなわちローマの平和は、ローマ帝国が全ての対抗勢力を握りつぶして維持されていました。

その7世紀前、戦争の影が色濃い地で、預言者イザヤが神のみことばを宣言しました。「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った…ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。…その主権は増し加わり、その平和は限りなく」と(イザ9:2、6-7節)。マタイは、イエスの誕生はイザヤの預言の成就だと語ります(マタ1:22-23、イザ7:14)。

私たちは、飼葉おけの赤ちゃんをいとおしく思います。しかし、このいじらしいみどりごは、全能の主、「万軍の主」でもあられます(イザ13:13)。このお方は「ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえ」られます(9:7)。その国の統治はパクス・ロマーナのような圧政ではありません。平和の君の統治です。—Tim Gustafson

父なる神よ、十字架の死とよみがえりによって、私たちと神との間に平和をもたらすために、御子が来てくださったことはいくら感謝しても感謝しきれません。主イエスが平和と正義によって、すべてを治められることを感謝します。

神の小羊イエスは、ユダ族から出た獅子でもある。

前の文章:羊のようだ 次の文章:もっとよく見たい 「驚くべき救い主の御名」ページ

第1篇:分かってくださるお方 第2篇:永続する平和

もっとよく見たい

彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。—ルカ19:3

子どもの頃、木登りが大好きでした。登るほどに眺めがよかったので、時には枝がしなるところまで登ったりもしました。しかし、それは昔のことです。もう、大人なのですから。

ザアカイは裕福な大人でしたが、世間体(そして多少の危険)も顧みず、木に登りました。エリコの町を巡っておられたイエスを見ようと思ったのですが「背が低かったので、群衆のために見ることができ」ません(ルカ19:3)。しかし、そんなことでひるまなかったのは幸いでした。彼の企ては成功し、イエスとお会いできたのです。イエスとの出会いは、彼の人生を永遠に変えました。イエスは「救いがこの家に来ました」と言われました(9節)。

私たちにも、自らの自尊心によって、また不安や名誉欲や物欲によって、イエスが見えなくなる時があります。主イエスが素晴らしい助言者であり、平和の君であり(イザ9:6)、本当の満足をいただけるいのちのパン(ヨハ6:48)であることが見えなくなります。

イエスをもっとよく見るために、どんなことをしようと思いますか。イエスに近づこうとする真摯な努力は、必ず良い結果をもたらします。神は、ご自分を熱心に求める人を喜んでくださいます(ヘブ11:6)。—Jennifer Benson Schuldt

主イエスよ、あなたの全てを感謝します。私が聖書を読んだり祈ったりするとき、さらにあなたを表してください。心を尽くし、思いを尽くして、あなたを追い求めさせてください。

信仰を強くするために、神の御顔を慕い求めよう。

前の文章:パクス・ロマーナ 「驚くべき救い主の御名」ページ

第1篇:分かってくださるお方 第2篇:永続する平和 第3篇:羊のようだ

羊のようだ

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。—イザヤ書53:6

ガーナ北部で祖父と一緒に生活していたとき、私に与えられた家の手伝いは、羊の世話でした。毎朝、羊を牧場へ連れ出し、夕方には戻します。このとき初めて、羊の強情さを知りました。例えば、畑を見ると必ず入って行こうとするので、私は幾度となく農家の人たちに叱られました。また、暑さと疲れで木陰で休んでいると、羊たちは散り散りに繁みに入って、丘に向かって行きます。後を追いかけると、足が引っかき傷だらけになりました。羊が危険な目に遭わないようにするのは、本当に大変でした。羊泥棒が、さまよう羊を狙って襲うようなときは特にそうです。

ですから私は、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(イザ53:6)という、イザヤの言葉がよく分かります。私たちは、さまよっています。神が悲しまれることを願ったり、行ったり、他人を傷つけたします。多忙や無関心が理由で、神とともに過ごす時間や神のみことばを学ぶ時間を大切にしなくなります。まるで牧場の羊のようです。

しかし、幸いなことに、いのちを捨ててくださった「よい羊飼い」がおられます(ヨハ10:11 口語訳)。その方は、私たちの悲しみと罪を負ってくださいました(イザ53:4-6)。そして、みそば近くを歩むことができるように、安全な牧場に帰りなさいと、声をかけてくださいます。—Lawrence Darmani

私は時にさまよいます。私のたましいの羊飼い、いつも私を探し、あなたのもとへ連れ戻してくださるお方、心から感謝します。

神に導いていただきたいなら、喜んでついて行かなければならない。

前の文章:永続する平和 次の文章:パクス・ロマーナ 「驚くべき救い主の御名」ページ

第1篇:分かってくださるお方 第5篇:もっとよく見たい

永続する平和

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、—エペソ2:14

第一次世界大戦中、1914年のクリスマスイヴのことです。約50キロにわたる西部戦線で銃声がやみました。塹壕(ざんごう)の上から覗き見ると、自分の陣地を修繕したり、死者を埋葬しようと、姿を現した兵士たちがいました。夜の闇が落ちると、ドイツ軍の中には、ランプを灯してクリスマスの賛美歌を歌う連隊が表れました。すると、敵である英国の兵士たちは拍手し、大きな声でクリスマスの挨拶をしました。

翌日、独、仏、英軍の兵士たちは、どちらの軍にも属さない緩衝地帯で握手を交わし、食べ物を分け合い、プレゼントを交換しました。この短い平和はまもなく終わり、翌日、大砲と機関銃の爆音が息を吹き返しました。しかし、後に「クリスマス休戦」と呼ばれるようになったあの日、あのいっときの平和を体験した人々は、誰ひとりとしてその味を忘れることはなかったでしょう。また、どれほど恒久平和を願ったことか、その思いも忘れなかったはずです。

イザヤはメシヤの到来を預言して、「その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と語りました(イザ9:6)。イエスは十字架の死によって、神と私たちを敵として隔てる「緩衝地帯」を取り除いてくださいました。「キリストこそ私たちの平和」です(エペ2:14)。

イエスとひとつになることで、人は永遠に神と平和を保ちます。また、他の人と調和することもできます。これが、人生を変えるクリスマスのメッセージです。—David C. McCasland

キリストの内にあってのみ、真の平和は実現される。

前の文章:分かってくださるお方 次の文章:羊のようだ 「驚くべき救い主の御名」ページ

第4篇:パクス・ロマーナ 第5篇:もっとよく見たい

分かってくださるお方

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。—ヨハネ1:14

ジョン・バブラーは、テキサス州のある町の警察署と消防署でチャプレン(職場の牧師)ですが、長期の特別休暇を利用して警察官訓練所に通いました。自分が仕えている人たちをもっと理解したいと思ったからです。候補生たちとともに過ごし、警察官が直面する厳しい課題について学んだことで、バブラー牧師は更なる謙遜と共感を身につけました。今後は、精神的ストレス、疲労、喪失にさらされる警察官を、より効果的に支援したいと願っています。

神は私たちを造られ、私たちに起こることをご存じですから、すべての状況を理解しておられます。その上、人としてこの世の人生を経験されたのですから、私たちの問題をご存じです。イエス・キリストは「人となって、私たちの間に住まわれ」ました(ヨハ1:14)。

イエスの人生には、さまざまな困難がありました。焼けるような太陽の熱、空腹の辛さ、安住する家のない不安を経験されました。批判や裏切り、度重なる脅しにもさらされました。また、友情や家族の愛という喜びや、この上ない痛みや死も経験されました。

イエスは、私たちの不安を洞察と思いやりを持って忍耐強く聞いてくださる不思議な助言者です(イザ9:6)。イエスは希望をくださいます。イエスは、私も経験したから分かりますと言うことができるお方です。—Jennifer Benson Schuldt

親愛なる主よ、ご自分を低くして人になるほどに、私たちを心配してくださり、感謝します。あなたは私の人生の全てを理解しておられます。私の悩みをあなたにおゆだねします。心から感謝します。

神は、私たちの困難を分かってくださる。

次の文章:永続する平和 「驚くべき救い主の御名」ページ

第3篇:羊のようだ 第4篇:パクス・ロマーナ 第5篇:もっとよく見たい